香林坊交差点109の裏手にある「純喫茶 ローレンス」。
人はここをローレンス島、またはローレンス塔、と呼ぶ。そこだけ浮世から隔絶された島であり、その姿は孤高にそびえる塔の如し。
石川県金沢市片町2-8-18
せせらぎ通りの川のほとりに建つ古い雑居ビルの3階。
開いた門の先には、突如薄暗い階段が現れる。
外界との境界線。
夕方ではあったが、それにしても暗い。
階段上るとミステリアスな女性裸像がお出迎え。
無防備にもそのドアは開け放たれており、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
まず目に止るのは、大量のドライフラワー。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
髪の長い、痩せた女性から声をかけられた。この方がローレンスの店主。マダムやママという呼び名には違和感を覚える。【女主人】という呼び名がしっくりくる。
すでに2組のお客がおり、そこから離れた席を…とウロウロ。
奥の小部屋にたどり着く。そこは大量のドライフラワーで覆われており、HRギーガー風の不気味な鉛筆画が飾ってある。
さらにその奥にも小部屋。
ギョッ! 鏡の中に人がいる!
少しして、向かいの壁に掛かった人物画が映り込んでいることを知りホッとするが、不覚にも一瞬だけリングの貞子を思い出してしまった。壁のヒビといい…どこか人を不安な気持ちにさせる部屋である。「予約席」の札があった。
結局は、1人では持て余しがちな、窓際の広々した席に落ち着くのだった。
テーブルには大量のドライフラワー。フラワー? いやフラワーじゃないのも結構ある。枯葉、謎の野菜、芽が大きく出たジャガイモ。これらがテーブルの半分近くを占領している。
メニュー表を渡されたが、なんてクールでミステリアス!
右下のカタマリを指さし、「この中でできるのは一番下の【トマトジュースのようなもの】だけです。他はできません。それ以外は多分できると思います」
要はトースト、ゼリー、プディングはできないが、他のドリンクはほぼ全部できるということ。多少なりともローレンスの噂は聞いていたので、結構良心的だなと思った。
とはいえ、ドリンクも「多分」と言ってたから油断はできない。
とりあえず、ミルクコーヒーにしてみるか。
「ミルクコーヒーはできますか?」
「大丈夫です。半分半分?」
はぁ? 半分半分?
「コーヒーと牛乳は半分半分にしますか?」
ああ、なるほどそういうことか。普通、ミルクコーヒーといえばミルクコーヒーだ。割合について聞かれたのは初めてだった。親切といえば親切。
…と、こんな感じで、一々女主人の口から飛び出す話を思い出すまま綴っていく。この先は長い。ローレンスを情報として知りたいだけの方はこの先は読む必要なし。物好きな方だけ読んでいただけたら、と思う。
「毎日店を開けるためには【いい加減】にやることが大切。無理をしてストレスをためれば、50周年までもちません。無理をして倒れて店をやめてしまうと困るでしょう? そう思いません?」
独り言かと思っていたら、私の隣に座る男性に同意を求めいていた。ええ、そうですね、と男性は曖昧に頷いていた。
「思春期とお子ちゃまの間」
な、ななな何の話? もう1組の若い女子に話しているのだった。何かの飲み物のブレンド具合をさしているらしい。「お子ちゃま」甘い、「思春期」苦いとかかな? これが女主人独特の語彙であり、芸術家特有の右脳的表現である。
女主人の口調は、淡々としており淀みがない。
背後で静かに流れてる音楽とテンポは一緒だ。バロック音楽のような淡々とした旋律に乗っかる言葉の数々。まるで詩の朗読を聴いているみたいだ。
(このときは分からなかったが、のちに作曲家でもありリュート奏者ジョン・ダウランドの曲であるらしい、と知る。)
男性との会話に戻る。基本、女主人の位置から一番話しやすいのが、この席なのだ。女主人と積極的に話したい人はここに座るのではないかと思われる。
「喫茶店は単にコーヒーを飲む場所とは捉えてません。②③④がなくて、⑤がなくて①。この店は①。そういう店だと思っています」
またもやワールド炸裂だ。なぜ②③④と⑤を分けるの? ②~⑤は何を指すの? ただ言わんとするところは理解できた。要するにこの純喫茶ローレンスは唯一無二の存在である。
ここで、また【いい加減】に話が戻った。いい加減は適当にとか、手を抜くという、もちろんそういう意味もだが、【好い加減】という意味で話しているようだ。50周年を迎えるまでは休めない、休まないためには営業時間を短くして、無理をしないこと。休みつつ50周年を迎えるという選択はないらしい。
「私が休むのはどうしても体調が悪くて起き上がれないとき、そのときだけはお休みをいただきます。でも午後2時午後3時に起きれたら店に出ます。6時半だったらお休みします」
「毎日お店があるから、私はどこにも行けません。もちろん旅行にも行けません」
隣の男性に話しているが、話はすべて筒抜け。お客はそれぞれ個別に訪問しているが、女主人を媒介して一体化してしまう。ところで、ミルクコーヒーはまだだろうか? 10分位経ってるが、と思って待っていると、「今日は7時までですけど、よろしいですか?」の声を合図にミルクコーヒーが出てきた。
唯一のパステルカラー。ぼってりした大きなチューリップ型のカップで出てきた。付け合わせのお菓子と一緒に。
通常のカップの1.5~2倍はある(380mlらしい)。でも、まあいいか。この日最後の喫茶店である。こうなったら、腰を据えてここで最後の一滴まで飲み干そう。
店の雰囲気からすると、乾燥イチヂクとか干し柿あたりが出てきてもよさそうなものだが、付け合わせは市販のお菓子。これも手を抜くところは抜くという、女主人のいう【好い加減】なのかもしれない。
話はさらに続く。
「私の趣味は編み物と絵を描くこと、小さな立体を作ること、小説を書くこと……」
あの小部屋に飾られた退廃的な絵は彼女の作品であった。
「72円の鉛筆で描いています。こんなのが100枚もあります」
「50周年にはここで個展を開くつもりです」
金沢美術工芸大学を卒業された女主人は、喫茶店主であると同時に芸術家でもある。50周年を迎えるにあたっての目標は個展を開くこと。2016年5月5日で50周年となる。それまで1年8か月。
時計は閉店時間7時に向け針を進める。隣の男性、もう1組の若い女性が立て続けにお会計をし、2人だけになってしまった。
ここで女主人に話しかけてみた。
私のカップは黄色、隣の男性のは同じタイプのピンク。この色の違いには何か意味があるのか、と。
ところがそれについての返答はなく、
「4色あります。すべての色が同じ数揃っているわけではありません。父の代で割れてしまったものも多くて、でも私が継いで11年の間に割ったのは1個だけです」
純喫茶ローレンスは現女主人のお父様が開いた喫茶店で、そのあとを継いでいる。
「一度だけカップを割ったときは、洗剤をつけすぎていたのね。洗ってたとき思いっきり手からつるんと滑って頭の上を飛び越えて後ろで割れてしまったの」
そのときの様子をジェスチャーする姿がお茶目で笑ってしまった。
ジリリリーン ジリリリーン ジリリリーン
黒電話が鳴った。女主人は電話を取り話し始めたが、「お客様がいらっしゃるので、またこちらからかけますね」と電話を切った。
壁の時計を見ると、すでに7時5分前。慌てて帰ろうとすると、「あの時計は10分進んでいるのでまだ大丈夫ですよ」と優しく引き留められた。
あのクール&ミステリアスなメニュー表をもう一度見せてもらった。【ダイモテープ】というものでタイプしているのだという。色合いも考え女主人が作った。
「黄色だと文字が目立たなくて、ネイビーだと背景の黒に紛れてしまう。自然とこうなったのね」
できないと言われたメニューにあるカプリシャス・ゼリー、カプリシャス・プディング。まず、カプリシャスの意味が分かっていないのだけど
「カプリシャス(capricious)は気紛れという意味。ゼリーは私が気紛れに作ります。滅多に作らないのだけど、お盆だとあることが多い」
無休は文字通りの無休であった。お正月、お盆関係なしに、50周年までは休まない覚悟で店を続けている。休むのは起きれないときだけだ。
「あなた、お元気?」
健康かどうか? 自慢ではないが、私は過去にも大病をしたことがなく、落ち込むことはあれど、うまく発散しているのか体も心も元気な方だと思う。そう答えると、
「それは良かった。ここに来るお客さんにはいろんな方いるから。ここの雰囲気が言わせるのかもしれないけど、普通言わないような【告白】をされることがたまにあります」
ここの雰囲気が言わせる…はなんとなくわかる。
時計を見ると、すでに8時近い。随分と時間がオーバーしてしまった。そろそろお暇を。
「いずれはイチローを作りたいと思います」
えええっ? イチローってあのイチロー? 芸術家肌の女主人から出てきた意外な名前に面食らっていると、
「小泉純一郎は作りました」
小泉純一郎?
こいずみじゅんいちろう?
小泉純一郎(元首相)
ドライフラワーで作成した小泉純一郎。そう言われてみると、ベートーベン風の小泉氏の髪型もうまく表現されてる(笑)。見れば見るほど小泉純一郎と重なってきた。一つ断っておく。ドライフラワーという言葉を女主人は使わなかった。終始、【枯れた草花】と呼んでいた。
枯れた草花。これからは私もそう呼びたい。
階段の下まで見送ってくれたので、ローレンスの由来を訊いてみた。
「作家のD・H・ローレンスでございます」
てっきり映画『アラビアのロレンス』だとばかり思っていたが、『チャタレイ夫人の恋人』の作者の方だった。
*
翌日もまた訪問した。
(記憶を手繰りながら書いているので、数字や単語等事実と異なる場合もあります。)
エムケイ
ブログを通して多くの方に純喫茶の魅力を伝えていきたいと思っています。
当ブログはリンクフリーです。トップページ、個別ページでもご自由に。
コメント
ハル
18歳で近くのデパートに勤務していた時です。先輩の男性に女性2人で連れて行ってもらいました。とても懐かしく拝見しました。
昔とは雰囲気がだいぶ違いますが。ありがとうございました。
2017/08/31 URL 編集
エムケイ
昔と雰囲気変わったのですか?
今もだいぶ古色蒼然とした雰囲気ですが、そういえば昔は店内に泉があったとか聞いたことあるような…
2017/09/03 URL 編集
ハル
2017/10/25 URL 編集
エムケイ
ちょっとイメージ今と違いますね。
クラシックが流れてるのは一緒みたいです。
ローレンスの下の店は繁華街という場所柄入れ替わり激しそうですね。
でもローレンスだけ変わらずそこにあるという。
>「ような」ばかりですね。失礼しました。
いえいえ、こういう思い出を書いていただけるととても嬉しいです。
時として正確な事実よりも思い出の方が実態に近い描写な気がします。
2017/10/25 URL 編集